式内 五百立神社
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概 要
社 号 式内 五百立神社
読み いおたち
江戸時代は「五百余所神社」と称す
延喜式神名帳 式内社 大和国添上郡 五百立神社
所在地 奈良市雑司町406(東大寺大仏殿手前左手)
御祭神 天冨命(あめのとみのみこと・天太玉命の孫)
建五百建命(タケイホタツ)--神名帳考証(1733又は1813)・神社覈録(1870)
天冨命(アメノトミ)--神社報告書(1874)
例祭日 7月5日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座
大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
添上郡(そえがみ):37座(大9座・小28座)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳 天喜4年(1056)5月の東大寺起請案に記載有り
本殿様式 春日造銅板葺
境内摂末社(祭神)
なし
一口メモ
県庁前の登大路駐車場から東大寺大仏殿まで徒歩で800m、10分。やや上り道なので長く感じた。東大寺は過去にも参拝していたのに小社で境内に神社があることは気づかなかった。今回、ちょうど国立博物館で正倉院展が開催されているのに合わせて参拝。午後6時をまわり日没後でナビを頼りに大仏殿山門前を通りすぎてしまい引き返してやっと見つけた。
歴史・由緒等
当社は五百余所社とか五百立神社と称せらる。
五百余所社の社名は天喜4年(1056)5月の東大寺文書に二十五所社・気比気多神社などと共にその名が見える。
中世の絵巻物などには、大仏殿創建に従事した五百人の工匠が、工事が完成すると五百羅漢になって天空高く飛び立ち、姿を消したとの説話がみえる。本来の祭神は定かでない。
大仏殿江戸期再建の祭にも、五百余所社は大工・小工の崇敬を集めたようで、番匠社とも呼ばれ、宝永6年(1709)3月の大仏殿落慶法要を前にした正月6日に、大工頭領堀内筑前守(若狭)が新建寄進している。社頭掲示板
創立年代は詳らかでない。延喜式神名帳にいう、『大和国添上郡 五百立神社』に比定されているが、確証はない。
『大和志』は東大寺真言院の北とあり、その位置は、今、五百立山上の「鉄道職員殉職者供養塔」(十三重塔)が立っている地だったといわれる。今の当社は小さな祠が参道の脇にひっそりと鎮座しているが、その脇を通って登った先の供養塔が立つ平地はけっこう広く、嘗ての当社は、それ相応の社殿を有していたと思われる。
明治初年の社寺分離政策に依り、村社として手向山八幡宮附属社となる
大正4年手向山八幡宮末社から村社に変更
昭和5年(1930)に鉄道供養塔造立のとき塔の脇の現地へ遷す
境内・社叢
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「戸原のトップページ」「延喜式の調査」
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